デビュー戦は、人生一度切りだ。
初めての舞台に、高揚も不安も緊張もすべてがブレンドされた感情が体内を駆けめぐる。青コーナーに向かおうとする19歳、川上拳汰もリングに入場する直前、大きな深呼吸を繰り返していた。
2021年11月2日、東京・後楽園ホール。オール4回戦の興行「Dangan Loading」はミニマム級のセミファイナルを迎えていた。先に入場した赤コーナーの江口道明もこの日がデビュー戦。相手と立場は同じはずなのに、ブレンドした感情のなかで高揚だけがトーンを落としていく。
入場曲に乗ってリングイン。激励賞を受け取っても、どこかぎこちない。対角線にいる赤コーナーの動きがやけに良く見えてしまう。
「相手は何か、場慣れしているみたいだな」
心でボソッとつぶやいた。
川上の所属する石川ボクシングジム立川は、元日本ライト級チャンピオンの故・石川圭一氏が1964年に開設し、60年近い歴史を誇る。ボクシングファンなら日本王座最多となる22度の防衛記録を誇るリック吉村が在籍したジムと言えばお分かりいただけるだろう。石川氏が亡くなった後は妻の久美子氏が会長を務め、2005年には昭島から立川に移転。川上は高1だった2016年夏に、ジムの門を叩いている。あれから5年、ここで鍛えられて後楽園ホールの舞台についに立ったのだ。
川上に寄り添うベテランの田中二郎トレーナーは少々心配そうに川上を見ていた。
会場に入ってからの前練習で対戦相手の動きを初めて目にして「非常にシャープ」との印象を持った。石川会長にも「きょうの試合は苦労するかもしれません」と伝えている。
ミットを持って仕上げに川上のパンチを受けたものの、きょうに限ってコンビネーションのミスが多い。指摘してしまえば試合前に萎縮する可能性もあったため、何も言わないまま途中で切り上げることにした。セコンドにつく石川会長も、彼がプロテストを受けた際に体が思うように動かなかったことを思い起こしていた。
デビューに合わせて用意したグリーンとイエローを基調としたシューズとトランクスが後楽園ホールのスポットライトに映える。
リングからは応援に駆けつけてくれた人たちがよく見えた。家族、友人、ジムの仲間たち……ざっと30人くらい。みんなのためにも勝ちたい、勝たなきゃいけない。今度はそう心でつぶやいていく。
怖じ気づかなくていい。初めての試合ながら、納得のいくコンディションをつくれたのだから。
7㎏落とさなければならなかった減量も順調にやれた。一発でパスした前日の公式計量後にはスーパーの弁当を3つもたいらげた。水も5リットルほど胃に流している。風呂に入って汗を流し、体重のリバウンドは3㎏台に抑えたことでパワーを感じるとともに動きやすさを感じていた。試合前夜もよく眠れた。不安に感じることなんてないはずだ。練習でやってきたことをすべて出すだけ。そう、それだけだ。
ゴンッ!
試合開始を告げるゴングが鳴る。
左のリードジャブを突き、今度はその左を大きく回すようにして駆け引きを主導する。緊張マックスのテンションはどこへやら、だ。練習でやってきたのは、前に出てプレッシャーを掛け、強くパンチを振ること。足さばきのうまそうな相手にハマらないかもしれないが、やってみるしかない。
「まず8オンスのグローブがどれくらい効くのか、逆に効かされるか分からない。とりあえずジャブを打って、ごり押しで前にいこう、と。そのときおでこにパンチをもらったんです。でも思ったほどの衝撃がなかった。これならもっと前に出ていいんじゃないかって思いました」
距離を詰め、ブンと大きくパンチを振る。フックがガードの上を叩く。フットワークのある相手にクリーンヒットまでいかないまでも、セコンドで指示を送る田中トレーナーの目には威圧感を与えられているように感じた。
「カワケンのパンチの振りで、相手がガードを固めた。相手もデビュー戦ですから、パンチの衝撃を感じて構えを変えてきた。これはしめた、と思いましたね」
ボディーを当てると、相手が下がった。「効いたかも」と思うと、余計な力が入ってしまうものだ。
パンチが大きいぞ! 小さく! 狙いすぎるな! もっと動け!
陣営の声は聞こえている。頭では分かっていても、体が思うようには動かない。緊張がまだ足に残っているようだった。
「セコンドの指示は聞こえていました。でもなかなか足が動かない。だからしっかりと足の土台をつくっていこうとは思いました」
土台とは下半身の重心を落とすること。それでいてベタ足になることなく足のバネをパンチに伝えていく。田中トレーナーから言われたことを、頭のなかで反芻していた。
1ラウンド終了。プロでの初めてのラウンドは「短くもなく長くもなく」。しっかりした足取りで石川会長や田中トレーナーの待つ青コーナーに戻っていく。
自分の動きが硬いなとは感じた。だがパンチを振る感覚は悪くなかった。最初の3分間を動いてみて、疲労度もない。
いける、やれる。
インターバルで呼吸を整えながら、体内からアドレナリンが出てくるのを感じていた。
2024年5月再公開