アットホーム。
清水範久が入団した1995年当時のジュビロ磐田を語る際、そんな表現を用いる人は少なくない。
磐田スタジアムの近くにある誠和寮の隣部屋にいたのが、1つ年上の奥大介であった。奥には多くのことを助けられたという。
「高校生で練習参加したときに、凄く気さくに話掛けてくれて、有難かった。プロに入ってからもそうですよ。大ちゃん、面倒見がいいので」
チームにすんなり溶け込めたのも奥のおかげ。分からないことがあったら、さりげなく教えてくれる優しい兄貴分。おかげで寮生活も、思った以上に楽しかった。プロの世界は先輩、後輩の壁もない。誰かの部屋に自然と集まっては談笑したり、ゲームしたり。そして何よりも自由を感じた。
「良くも悪くも高校時代は押さえつけられているわけじゃないですか。解き放たれたというか、その反動もあったのか何をやっても楽しかったですね。高校時代、部活の帰りに車に飛び込まなくて本当に良かったと思いましたよ(笑)」
のちに日韓ワールドカップでブラジル代表を率いて優勝を果たすルイス・フェリペ・スコラーリ監督が就任し、キレのいいドリブルを買われてJリーグデビューを果たすとともに、出場機会を増やしていく。
「フェリペに代わって、大ちゃんと俺が使われるようになって。多分ドリブラーが好きなんだろうなというのはありましたよ。監督からは〝自由にやっていいぞ〟と。オフトのときは縛りがあったから、その反動もあってまた違う楽しさが自分のなかに出てきました。えっ、アウトサイドを使ってもいいの、みたいな」
フェリペはブラジルに帰国するためわずか4カ月間の指揮にとどまったものの、桑原隆監督代行体制になっても高い評価を得ていた。チームはセカンドステージを制し、鹿島アントラーズとのチャンピオンシップに臨んだ。
1997年12月6日、磐田スタジアム(現ヤマハスタジアム)での第一戦。清水をサイドで先発起用したチームは2点をリードしながらも、後半途中から相手ペースとなって同点に追いつかれてしまう。
延長後半、ヒーローになったのは21歳の若武者だった。
清水は右サイドから中にいる久藤清一にパスを出し、中山雅史から受け取って再び前へ。ペナルティーエリア外から勢いよく左足を振り抜き、ボールはポストをかすめてゴールネットを揺らした。タイムアップ寸前の延長Vゴール。劇的な勝利で勢いづいたチームはアウェーでの2戦目も勝利して初のリーグ制覇を果たす。
清水はこう振り返る。
「あのシュートはまさにオフトからずっと教えられてきたような形で味方のサポートに入って、そのまま打つことができた。大事な場面で自然に体現できたのは、やっぱりオフトのおかげだと思っていますよ」
教えられてきたことがしっかりと身についていた。だが、ここからレギュラーに定着していくかと思いきや、そう簡単にはいかない。
期待を懸けてくれる選手のなかに〝闘将〟ドゥンガがいた。試合では容赦なく叱り飛ばされた。だが一端ピッチから離れるとアドバイスを頻繁にもらった。
1998年シーズンを前にした名古屋グランパスとのプレシーズンマッチ。試合中に何度も注意され、ハーフタイムでも再びまくし立てられた。思わず清水の口から「うるせえ」と出てしまった。
ドゥンガの顔色が変わった。
「はいはい、アナタ、うるさいね。はいはい」
後悔先に立たず。以降、こっぴどく怒られたことがなくなった反面、アドバイスをもらえることもなくなった。
この年限りでチームを離れたドゥンガとは結局、関係を修復できなかった。だが、コーチングスタッフから後に聞かされた言葉に、清水の胸は熱くなった。
「ドゥンガはお前のこと、凄く期待してんだぞ。〝このままアイツがもし鳴かず飛ばずで終わったとしたら、コーチングスタッフのせいだぞ〟って言われたんだから」
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
その後も試合に出たり出なかったりの状況が続き、2000年9月のタイミングで岡田武史前日本代表監督率いるJ2コンサドーレ札幌に期限付き移籍する。
J1昇格が濃厚となっていた時期に呼ばれたことは何を意味するのか。指揮官からは「来年の戦いを見据えてお前には来てもらった」と直接説明を受けた。しかしここでもスタメンに絡めず、結局はレンタルバックとなる。
ブレイクしそうで、なかなかブレイクしない。
周りからのもどかしさをよそに、本人が自分のペースを崩すことはない。オフトからの教えを軸に置き、与えられたミッションをさぼることなく全力でこなしてチームのために働くだけだ。
チャンスが訪れた。
2001年シーズン。高原直泰が海外移籍したセカンドステージに中山とコンビを組むことになる。16試合の出場にとどまりながらも自己最多となる5ゴールを挙げた。
クラブは夏に開催予定だったクラブ世界選手権でのレアル・マドリード戦に向け(結局大会は中止に)中盤をボックス型にして中央に名波浩が入る新布陣をテストした。これが見事にハマり、ファーストステージを優勝する。清水が主に出場機会を得たセカンドステージは2位となりながらも13勝2敗と好成績を収めている。
「あの年は1-0や2-0で勝っても、内容が悪かったらスタンドからブーイングが飛んできた時代。勝っても文句言われたし、自分としてもチームが負けるのが何よりも嫌でした」
一緒にプレーすればするほどコンビを組む中山の凄さを感じないではいられなかった。
「ゴンさんはまずもってアスリート能力が高い。足は速いし、ジャンプ力もあるから。誰よりもストイックだし、1本のシュートに凄くこだわる。もし前の試合でシュートを外していたら、週明けからシュート練習をどんどんやっている。本当に凄いなと思って見ていました。チーム戦術、個人戦術を含めてジュビロで教えてもらったこと、感じたことがその後の自分(の価値観)につながっているのは間違いないですよ」
そんな折、ジローに分岐点がやってくる。
このシーズン、残留争いを巻き込まれた横浜F・マリノスからオファーが届いたのだ。7シーズンを過ごした愛着あるクラブか、それとも新天地か--。熟慮の末に、彼は大きな決断を下した。
2021年11月公開