小出義雄記念陸上競技場と金メダルジョギングロード
千葉県は佐倉市、岩名運動公園はうっそうと生い茂る緑に包まれていた。私と近藤カメラマンは園内にある長嶋茂雄記念岩名球場を見学したあと、小出義雄記念陸上競技場に足を向けた。陸上長距離の名物監督しとして有森裕子さん、鈴木博美さん、高橋尚子さんら五輪、世界選手権のメダリストを育てた小出さんは2019年4月に亡くなった。その後、佐倉市が小出さんの功績を称えようと、20年2月に公園内の陸上競技場を小出義雄記念陸上競技場としたのである。
野球場は閉ざされていたが、こちらは入り口が開かれていた。中に入るとゆかりの選手たちの写真やシューズ、直筆サインなどが展示されている。上記の3人以外に2003年の世界選手権マラソンで銅メダルを獲得した千葉真子さんの品々も。彼女ももちろん小出門下生だ。メンバーの顔を眺めながら、あらためて小出さんの功績の大きさを実感した。
小出さん、そしてご家族の人柄なのだろう。佐倉市は小出さんやその教え子たちを“全面押し”しており、いたるところにその足跡を偲ばせるものがある。その代表は「金メダルジョギングロード」だ。高橋さんが走った「尚子ロード」と有森さんが練習した「裕子ロード」の2つがあり、ランナーたちは自分の走りと偉大な先達の走りを重ね合わせながらジョギングをすることができるという趣向になっている。
高橋さんが陸上の日本女子で初の金メダルを獲得したのは2000年のシドニー大会だった。少し自慢げに告白させてもらうと、私は現地まで観戦に行っている。最初に勤めた新聞社をやめ、パックツアーでオーストラリアに飛んだのはもう21年前のことだ。スポーツライターになるため、まずはあこがれのオリンピックをこの目で見てみよう。そんな気持ちだった。ターゲットは新聞記者時代に取材をしていた陸上女子1万メートルの高橋千恵美さんだった。
ということなのだが、これも正直に告白すると高橋尚子さんの感動の金メダルは目撃していない。なぜなら私がシドニーに到着したのは高橋さんが金メダルを獲得した翌日のこと。間が悪いといえば悪いのだけど、そういうツアーに申し込んだのだから仕方ない…。
話を戻そう。このロードは岩名運動公園を起点に印旛沼など豊かな自然の中を走るコースで、尚子ロードは全長10キロ、裕子ロードは13キロとなっている。佐倉は昼前になると、どんよりと空を覆っていた雲がなくなり、晴れて蒸し暑い陽気になっていた。さすがに金メダルジョギングロードを走るのは無理と考え、園内にあるクロスカントリーコースを少しだけ走ってみることにした。
木々に囲まれた自然のコースでありながら、地面にはウッドチップが敷き詰められて走りやすくなっている。ただし勾配はかなり急なところがあり、これが1周1600メートルあるのだからなかなか本格的だ。私は数分ほど汗だくになってクロスカントリーコースを体験し、岩名運動公園をあとにすることにした。
さあ、行きは京成電鉄の佐倉駅から岩名運動公園までバスに乗って楽をしてしまったけど、帰りは歩こうじゃありませんか! ちなみに駅までの道のりは「裕子ロード」に含まれる。私と近藤カメラマンは「裕子ロード」をてくてくと歩きながら“小出トーク”に花を咲かせた。
まずは私――。
「いや、野木丈司さんというボクシングのトレーナーがいて、世界王者だった比嘉大吾なんかを教えているんですけど、その人が昔陸上をやっていて小出さんの教え子なんですよ」(渋谷)
「えっ、そうなんですか?」(近藤)
いまやボクシングの指導者として有名な野木さんは佐倉高校の出身。高校で小出さんが顧問を務める陸上部に入るのだが、その目的は「プロボクサーになるために役に立つから」というもの。野木さんは陸上選手としても才能を発揮して全国高校駅伝に出場する。小出さんにとっても指導者として初めての全国高校駅伝への出場だった。
小出義雄さんと私たちの思い出
そうした縁があり、野木さんはボクシングの指導者になってからも小出さんを慕い続けた。競技は違えども、若い選手を指導する上でたくさんのアドバイスをもらったという。野木さんがセコンドに入る後楽園ホールの試合で、私は観戦に来ていた小出さんを何度か見かけている。
「いや~、後楽園ホールでもいつもニコニコしながら酒飲んでたなあ~」(渋谷)
「やはり飲んでいましたか」(近藤)
続いて近藤さん――。
「もうずいぶん前ですけどNumberの取材で小出さんを撮影しに佐倉まで来たことがあったんですよ」(近藤)
「佐倉アスリート倶楽部ですか?」(渋谷)
「そうです」(近藤)
小出さんは2001年に佐倉アスリート倶楽部を立ち上げ、この地で選手たちを指導した。近藤さんが取材に来たころ、既に小出さんは超有名監督であり、陸上界のご意見番的な存在になっていたのだろう。
「どんな取材だったか憶えてます?」
「いや、内容はさすがに……ただ、小出さんが酔っていたのは憶えてますね。ああ、昼から飲む人なんだなあと」
豪放磊落な性格でお酒に関するエピソードは事欠かない人だった伝えられている。どんなに飲んでも許されるタイプの人だったのだろう。そういえば後楽園ホールでも心の底からうまそうに飲んでいたものだった…。
岩名運動公園から佐倉駅までは歩いて25分ほど。駅舎が視界に入ったころ、近藤カメラマンが「確かここだったかなあ」とちょっとこじゃれたマンションの前で足を止めた。コの字型の建物の1階部分は住居というよりもかつてはお店だったと思わせるたたずまいだ。
ふと窓越しに見えた扉に「監督・コーチ室」のプレートが残っていた。そうか、ここに佐倉アスリート倶楽部があったのか…。建物の作りからすると、上階が選手たちの住む個室だったのだろう。扉の奥に小出さんがどかっと座り、うまそうにビールを飲みながら「いや~、Qちゃんはね~」なんて話している姿が目に浮かんできた。
2021年7月公開