「女としての人生を歩みます!結婚します!」
2019年9月12日、後楽園ホールでのIBF世界女子アトム級タイトルマッチ。王者の花形冴美は過去2戦2引き分けの池山直を挑戦者に迎えて2-1判定で初防衛を果たした後、リング上で結婚を報告した。
お相手は日本ボクシングコミッションの岡庭健審判員。2019年5月に共通の知人を介して連絡先を交換したのがきっかけで、交際をスタートさせることになったという。2016年3月にOPBF東洋太平洋女子ミニマム級王座を獲得した際にレフェリーを担当したのが岡庭審判員だったが、時を経てまさか自分のパートナーになるとは思ってもみなかった。
花形は照れ笑いを浮かべて言う。
「初防衛戦の5カ月前からお付き合いするようになって、すぐに結婚しようってなりまして。試合が終わった後、JBCに2人で報告にいきました」
ボクサーとレフェリーの言わば〝禁断の愛〟。周囲にバレないように交際し、いらない誤解を与えたくないというのもスピード結婚の背景にはあったのかもしれない。
この初防衛を最後に引退すると夫は思っていたそうだ。
「いや、やめるなんて一言も口にしてないんです(笑)。まだ続けるからって話をしたら驚かれて。自分のなかではチャンピオンがゴールではなかったので。チャンピオンでずっといることに執着はないんです。ただ、まだやり残したことがある、乗り越えられていない壁があると思っていました。長くて2年っていう考えを夫に伝えたら"分かった。応援する〟と言ってくれました」
「あと2年」は短く、早い。
プロボクシングにもコロナ禍が及んだ。
花形の2度目の防衛戦はなかなか決まらなかった。2020年の年末になってようやく翌年2月にここまで無敗の松田恵里との対戦が発表された。当初の予定から3週間ずれ込むことになったものの、初防衛戦から1年半となるこの試合をラストマッチに設定した。
次のチャレンジに向けて、動き出してもいた。それは小学校教諭になること。通信制の大学にも通い始め、勉強とボクシングの両立を図っていた。成績はオール優。単位の3分の2を1年間で取得した。
「小学校の先生というのは、ずっと前から(心に)あったとは思います。バーレーン日本人学校の先生からいい影響を与えてもらったし、未来のある子供たちに、自分の経験とかを伝えられたらいいなって。担任を持つことができたら、1年通して子供たちの成長を見守ることもできますから。試合が延期になったこともプラスに考えました。2月はスクーリング(授業)もあって凄く忙しい時期でもありました。延びたことで余裕を持って、試合に臨むことができたかなって思います」
最後の試合のテーマとして掲げたのが「楽しむこと」。
ロードワークも、練習も、減量もすべて楽しもうと思った。周りに感謝し、コンビを組む木村章司トレーナーとのミット打ちもやっぱり楽しいなと思えた。
「勝っても負けても最後だからって思うと、変なストレスもなかった。残されたボクシングできる日々を本当にずっと楽しむことができた。そうしたらこれ以上ないって思えるくらいの仕上がりになったんです」
3月18日、試合当日。
夫から電話で「最後だから悔いなく頑張って」と激励を受け、滞在先のホテルから後楽園ホールへと向かった。
何度も戦ってきたこの会場もこれで最後かと思うと感慨深いものがあった。入場の際、控え室を出て階段を上がって会場に入ると、涙がこみ上げてきた。気をちょっとでも緩めれば涙が出てしまう。今まで感じたことのない異質の緊張感があった。
試合も「楽しむ」どころか、出だしは動きが硬かった。
挑戦者の松田がアウトスタイルでスピードを使ってくるかと思いきや、足を止めて打ち合いを挑んできた。その想定はしていたものの、自分の硬さが思っていた以上だった。甲乙つけがたい展開が続き、5、6ラウンドになると挑戦者の勢いに押され始めていた。
「試合で楽しむってなかなか難しいですね」
コーナーに戻った際に木村にそう話かけると、お互いに苦笑いを浮かべた。と同時に、もう少しで自分のボクシング生活が終わると思うと何かが弾けた感じがあった。
「このままじゃもったいないだろって、もっと楽しまなきゃ損だろって、ふと心のなかに入ってきたんです」
明らかに動きが変わった。躍動感が違った。7、8ラウンドが逆に王者が優位に立った。どこか楽しそうに、持てる力をすべて吐き出そうとしていた。
採点は気にしていなかった。
なぜなら壁を乗り越えられた感があったから。勝とうが負けようが、ボクシングを卒業できると思えた。リングを照らすライトがいつにも増してまばゆく見えた。
ドロー防衛がコールされ、ボクサー花形冴美に別れを告げるときが来た。
最後のリング上、周りの人々に感謝を伝えたかった。
母への感謝。
何だかんだと言いながら、毎試合応援に来てくれた。勝つのは当たり前で、負けるとボロクソに言われた。でも世界のベルトを獲ったときだけ「よく頑張ったね」の一言、LINEでメッセージをくれた。
母の誕生日がラストマッチという偶然。ありがとうと伝えたかった。
応援してくれたファンにも感謝を伝えた。
コロナ禍のイベントには時間制限もあって、花形の挨拶はここで終わった。
しかし最後の最後に、一番伝えたかった感謝があった。それはトレーナーとして支えてくれた木村に対して。
リング上で言うつもりだったが、リングを降りてから誠心誠意の感謝を伝えた。
そのときのことを尋ねると、彼女はしみじみと言った。
「だって木村さんがいなかったら、絶対に世界チャンピオンにはなっていませんから。人として何が足りないか、人としてどうあればいいか。一緒になって本気で考えてくれましたし、本気で叱ってくれました。本当に感謝しかないです。花形ジムだったから、世界チャンピオンになれたと思っています」
挫折があったら、逃げてしまう自分が嫌だった。
そんな自分をボクシングが変えてくれた。
ボクシングに対する感謝が彼女の心に広がっていた。
インタビューの場所は、思い出深い後楽園ホールの近く。
最後にもう一度、尋ねてみたくなった。
ボクシングに1ミリも未練はありませんか?
岡庭冴美は、目を見開いて笑顔を見せた。
「全然ありません。ボクシングはもう過去のもの。未来に向けて、チャレンジしていきます」
春の柔らかい陽射しが、彼女の頬を照らす。
まるで次なるチャレンジを祝福するように――。
No Regrets ボクサー花形冴美の流儀 終わり
2021年5月公開