花形冴美が花形ボクシングジムの門を叩いた時期、日本ボクシング界に大きな動きがあった。JBC(日本ボクシングコミッション)と日本プロボクシング協会による合同検討員会において「女子解禁」が決定したのだ。ボクシングとの出会いは、まさに運命的であった。それに花形ジムには女子ボクシング界の第一人者と言える猪﨑かずみがいた。女子ボクサーが馴染みやすい環境が当初からあったことも幸運であった。
これまでやってきた球技とは違うし、団体スポーツでもない。ボクシングジムでの練習は、純粋に「楽しい」と感じた。
「最初からメチャメチャはまりました。練習でやった分だけ、自分に返ってくるじゃないですか。サッカーでも妥協したし、医学部受験もあきらめた形になりました。ハンドボールもあのような形でやめなければならなかった。だからこそボクシングに懸けたい。自分を変えたいって思いました」
ただ大きな問題があった。理学療法士を目指して入った大学では実習が多くなり、ボクシングとの両立が難しくなっていたのだ。
自分を変えたい。ならばボクシングに懸けたい--。
母親には「好きなことをやりたいなら卒業しなさい」と言われた。正論だった。
だが国家資格を所得して卒業してしまえば、逃げ道をつくってしまうことになりかねないと彼女は考えた。学費を工面してくれる親の思いもある。悩みに悩んだ末、大学3年の秋に退学を決断した。師匠の花形進会長に報告すると、びっくりされた。
私は絶対、世界チャンピオンになる。
心に決めたし、周囲にもそう伝えた。
大言壮語だと笑われたっていい。自分との約束で決めたのだから。そう覚悟を決めてこの世界に飛び込んできたのだから。
2008年3月のプロテストに合格すると、エキシビジョンマッチを挟んで8月のデビュー戦が決まる。田中冴美は花形会長から「花形」の名をリングネームとして譲り受け、「花形冴美」となった。
「自分を変える」そのチャレンジは充実していた。
好きなことをやる以上、親には甘えられない。生活費は自分で稼がなきゃいけない。「大学生のときに働いていたコンビニでお客さんとしてよく来ていたラーメン店の店長」にプロボクサーになることを伝えると「じゃあウチで働いたらどうだ」と誘われ、ラーメン店で働くことになった。ボクシング優先になることは理解してもらっていたので融通が利いた。
朝起きてロードワークしてからアルバイトに出掛け、夕方からのジムワークに励んだ。
サッカー、ハンドボールとやってきて体力には自信があったし、気力もみなぎっていた。練習量は、他のジムメートに負けていないという自負もあった。2~3時間みっちりとやった。花形会長も目を見張るほど。だからこそ「花形」の名を授けてくれたのかもしれない。
「(名前を)やるぞって会長が言ってくれて、〝ありがとうございます〟と。でも木村さんや他の人にも言っていたそうです。みんなおそれ多くてつけなかっただけみたいで(笑)。私はもう単純に〝花形冴美〟っていいなって」
木村さん、とは元日本スーパーバンタム王者でその後日本王座に返り咲き、2度世界挑戦する木村章司である。花形ジムの看板選手であり、花形にとっても先輩。のちに自分を世界に導くトレーナーとなるとは思ってもみなかったに違いない。
待ちに待ったデビュー戦がやってきた。
2008年8月12日、後楽園ホール。プロ2戦目となる越石優が相手だった。
会場は花形を応援するファンが多数を占めていた。学校の友人、バイト先など声を掛けたら250人も集まってくれた。
しかしながら結果は無情だった。越石の右ストレートを浴びるなど優位に試合を進めることができず、判定負けに終わった。目に違和感があったために病院に行くと、眼窩底骨折が判明した。敗北とケガのダブルパンチ。いつもは意気軒高の花形もさすがにショックが大きかった。
退院した際、報告のために母親と一緒に花形会長のもとを訪れた。
大学を辞めるときは反対されたが、デビュー戦も応援に駆けつけてくれていた。そんな母親が「会長さんと話があるから、あなたは外で待っていなさい」と会長室から追い出された。
「デビュー戦で大ケガですからね。会長にも後で聞いたら『やめさせてくれと言われるんじゃないか』と思ったそうです」
実際はその逆だった。
母は会長にこう言って、頭を下げたという。
「あの子は壁にぶつかったらいつも逃げてしまうんです。だからボクシングは、トコトンやらせてください。よろしくお願いいたします」
母親には厳しく育てられてきた。褒められた記憶なんてほとんどない。「いつも反抗期くらい」の態度で接していた。だが花形会長への"お願い〟を知ると、自分の母親らしいとも思えた。
「厳しいなかにも、いつも私のことを考えてくれているのは分かっていましたから。そう言ってくれる親で良かったなってそのとき思いました」
翌2009年4月のプロ第2戦目からは、5連勝をマーク。次第に注目を集めるようになり、キャリアを重ねて2012年12月にはWBC女子世界アトム級王者・小関桃への挑戦が決定する。
小関はこの王座を8度も死守している絶対王者。花形は積極的なファイトを展開しながらも、王者のスピードに手を焼いて0-3判定負けに終わった。
一つの敗北を糧に、飛躍するのが彼女の持ち味。
世界チャンピオンになると決めて、その目標が近いところまでにはやってきた。
だがここから、近くて遠い存在だということを思い知らされることになる。
2021年5月公開