想像以上に難しかった仕事とハンドボールの両立
森下将史は大学卒業間際だった2018年、ジークスター東京の前身である東京トライスターズのトライアウトに合格、日本ハンドボールリーグを目指すことになった。ジークスター東京が日本リーグに参戦した初年度にキャプテンを務めることになる森下だが、そこにいたるまでには大いに苦労している。
5番の森下を中心に円陣を組むジークスターのメンバー
地元の岐阜に帰って教員になるという路線が急きょ変更となったのは大学も卒業間際のこと。教員ではなく、トライスターズの選手として高みを目指すことになり、まずやらなければならなかったのは仕事探しだった。トライスターズはできたばかりクラブチームであり、プロ契約選手はいなかった。つまりどの選手も生活の糧は自分で働いて得るしかない。チームは選手たちが少しでもハンドボールに打ち込めるようにと仕事を斡旋してくれた。
ありがたかったが、競技との両立を考えると、必ずしもふさわしい仕事ではなかった。
初年度はホテルの清掃の仕事に就いた。ただし正社員ではなくパートという立場で、かつ仕事が片付いてしまえば「おつかれさまでした」というシステムだ。他の選手の話を聞くと、店舗によってやり方は違うようだが、これでは生活できるだけのお金を稼ぐことができない。なんとか1年をやり過ごしたが、とても両立はできないと思った。
「これでは無理だと思って、スタッフに話をして、2年目は別の職場を紹介してもらったんです」
2年目は別の会社で食品の仕分け、配達をする業務を担当した。こちらはパートではなかったもののシフト制。試合に出場するために仕事を休んだ場合は、別の休みをつぶして出勤しなければならない。中身はずっと立ち仕事で、昼休みはなく、昼食は立ったまま食べる。有給休暇やボーナスはもちろんない。肉体的、精神的にきつく、選手としてさらにレベルアップしたいと考えても長くできる仕事ではないと思った。2年目が終わって森下はまたしてもマネジャーの髙宮悠子に相談することになった。
髙宮にとっても選手の仕事探しは頭の痛い問題だった。練習時間に間に合わなければ困るし、遠征があれば少なくとも2日は休みをもらわなければならない。そのあたりを理解してもらえる会社が好ましいのだが、なかなか思うように協力は得られなかった。
そんなとき、幼稚園を経営している墨田区ハンドボール協会の会長と話をする機会があり、ジークスターの選手を雇ってもらうことで一気に話がまとまる。この墨田幼稚園で働くことになったのが森下とチームメイトの加藤哀樹。ここは休みの融通を利かせてくれたし、何より教員を目指していた森下にとって教育の現場はやりがいを感じることができる職場だった。
「幼稚園児のような小さい子と関わることが今までなかったんですけど、実際に関わってみると子どもたちの日々の成長を感じるし、大人になる上で一番の基礎を作る大事な時期に携われる。すごくやりがいを感じています」
幼稚園の園庭にて。やりがいを感じる職場だ
森下は幼稚園教諭の資格を持たないため担任を持つことはできないが、正社員の専門教育講師として、得意の体操の指導で大いに力を発揮した。ハンドボールで鍛え抜えらた肉体と物腰の柔らかさが森下の魅力だ。体操の先生は子どもたちに大人気に違いない。
幼稚園が肌に合っていたのは、森下が現役を引退したあとも引き続き墨田幼稚園で働いていることが何よりの証だろう。将来は中学校や高校の教員になり、ハンドボールの指導者になるという夢を今でも持っている。いつの日か中高生を教えることになっても、幼稚園児に接した日々は大いに役立つことだろう。
そう、選手人生が終わったからといってハンドボール人生が終わったわけではないのだ。マネジャーの髙宮は森下と加藤が在籍する墨田幼稚園とジークスターがコラボし、何か子どもたちを対象にした運動教室ができないかと企画を考えている。東京でホームゲームがあるときは、森下と加藤に声をかけ、何らかの手助けをしてもらおうとも思っている。
温かくなり始めた3月下旬、森下は幼稚園から休みをもらって1週間ほど帰郷した。高校時代、息子のハンドボールの試合となれば欠かさず応援に来てくれた父と母と語らい、毎日のように地元の高校や中学、小学校にまで出かけて子どもたちとハンドボールを楽しんだ。
教えることが根っから好きなんですね? そう問いかけると森下は迷うことなくこう言葉を返してきた。
「というか、ハンドボールが好きなんです」
25歳で引退と聞いて「もう少しがんばってみれば」と思うのは何も知らない第三者の見方にすぎない。引退は決して後ろ向きな決断ではないのだ。森下の笑顔がそう語っていた。
ともに戦った仲間たちとジークスターの「Z」ポーズ
ジークスター東京物語 森下将史編 おわり
2021年4月公開