最終学年で大学日本一を達成して、次の目標はプロで活躍すること。
Jリーグから誘いはなかったものの、1995年、秋元利幸はJリーグ加盟に動くJFLの大塚製薬サッカー部(現在の徳島ヴォルティス)への入団を決める。
当時のJFLはJリーグ予備軍となっていて、レベルも高かった。ここで活躍してJリーグの世界に飛び込むという青写真を秋元は描いていた。
だがプロキャリアはわずか4年間で幕を閉じることになる。古傷である左膝のケガに苦しみ、思ったようなプレーができなかった。プロ契約の収入によって借りていた学費など全額返済することができたとはいえ、わずか4年で現役引退を余儀なくされるとは思ってもみなかった。
大塚製薬サッカー部のルーキー時代。左膝は分厚くテーピングがされている。写真は秋元利幸さん提供
セカンドキャリアはスポーツトレーナーを目指した。ケガが多かったため、選手寿命を延ばす役割を担いたいと考えたからだ。お世話になった指圧治療院に弟子入りすることになるが、半年で辞めてしまう。
「ちやほやされたプロのサッカー選手から、何も分からない世界に飛び込んでみたわけですけど、分からないからバンバン怒られるし、収入も含めて落差があまりに激しくて耐え切れなかった。社会の厳しさっていうのもそのとき肌で感じました」
埼玉に戻った秋元は、働きもせず、プータロー生活を続けていた。サッカー界に戻りたい気持ちがあっても、どうやってアクションを起こしていけばいいのかも分からない。気がつけば、プロ時代に貯めていたわずかばかりの貯金も底をついていた。知人に頼まれてサッカー教室の講師などもやっていたが、あくまで臨時収入に過ぎなかった。
1999年のある日、大宮公園の芝生で昼間から寝そべっていた。
一本の連絡が入った。J2の大宮アルディージャでマネージャーを務めるア式蹴球部の先輩だった。高校の教員になるため、「代わりにマネージャーをやってみないか」と打診された。
気乗りはしなかった。要はチームの裏方の仕事。早稲田でキャプテンとして大学日本一にもなった自分が、なぜチームのお世話係をしなきゃいけないのか。サッカー界に戻りたいというのは、裏方の仕事をイメージしたわけではなかった。とはいえ、何もない今の自分がサッカー界に戻ることができるのはこの道しかなかった。
秋元曰く「変なプライドが邪魔して、真面目にやれていなかった」。
雑用を一手に引き受けなければならない。自分をみじめに感じた。大学サッカーで戦ってきた名波浩や大岩剛らはあれだけ活躍しているのに、どうして俺は……。陰に隠れて、涙したこともあった。
そんな折、新米マネージャーは〝事件〟を引き起こしてしまう。
通常Jリーグの試合においてチームはバスで会場入りすることがルールとして定められている。バスの手配も、マネージャーの重要な仕事。しかしある日のホームゲームで、チームを送迎するバスが待てど暮らせどクラブハウスに到着しない。先にスタジアムに到着していた秋元に「バスが来ない。どうなっている?」とチームから問い合わせがきた。
慌てて確認すると試合の開始時間を間違ってバスを手配していたことが発覚する。チームのGMが機転を利かせて別ルートを使って何とか危機を回避できたものの、選手やスタッフからの冷たい視線を感じた。
アルディージャのマネージャー時代。みじめに感じて、涙したこともあった。写真は秋元利幸さん提供
あるときは練習ビブスを忘れてしまい、紅白戦でビブスを着るほうのチームが裸だったこともある。自分に思い切りダメ出しをした。
「俺、ちゃんとやんなきゃって思いました。マネージャーだって、その道のプロ。しかしこれじゃプロの仕事じゃない。変なプライドなんか必要ない。そこからです。変わっていったのは」
早稲田でキャプテンまで務めた人ゆえ、視野は広い。チームのこと、選手のことを一番に思い、〝できるマネージャー〟になっていく。
その頑張りがクラブからも認められ、強化部スタッフ、その後は8年間にわたって広報を務めることになる。
「会社には感謝しています。マネージャーで社会人の勉強をさせてもらって、強化部ではサッカーに携わることができて、広報では多くの関係者と人間関係を構築できましたから。本当にいろんな人にお世話になって今がある。人に恵まれているなって思いますね」
広報部時代に、最愛の父を病気で失った。
「父のことは尊敬していますし、僕にくれた一つひとつの言葉が財産です。〝仲間をつくれ〟という言葉は今も大切にしています」
無料で1年間、食事を提供してくれた「エスカルゴ」のマスターも病気で天国に旅立った。早稲田を離れて以降、お中元、お歳暮は欠かしたことがない。連絡も取り続けていた。病気を知ったときには、ア式蹴球部のメンバーに声を掛けてお見舞いに駆けつけたこともある。マスターから受けた恩を忘れたことなどない。
サッカーを通じて多くの仲間ができた。仲間がいるから、笑顔になれる。仲間がいるから、楽しいって思える。つらいときも、励ましてくれる仲間がいたから乗り越えることができた。それがサッカーの素晴らしさ――。
アジアでのサッカー教室を通じて、多くの子供たちにその経験をしてもらいたい。いっぱい仲間をつくって、いっぱい笑顔になってほしい。秋元にはそんな夢がある。
「コロナ禍で動けていないのは残念ですけど、リモートで何か国際交流できないかとかいろんな可能性を探っています。直接会うことは今、難しいかもしれない。リモートでもいいからアジアの子供たちに会って、笑顔になってもらえることないかなって考えていきたいですね」
彼はそう言って、にこやかな表情を浮かべる。
アジアに笑顔を。
フットボールの花束を。
極上のそのスマイルには、人を笑顔にさせる力がある。
終わり
2021年3月公開