だれもが驚いた強豪チームから新興チームへの移籍
日本ハンドボールリーグの強豪チーム、大崎電気で8年目のシーズンを終えたというのに、信太弘樹(31)の心はどこかモヤモヤしていた。この年、残した成績は申し分なかった。チームは主要大会である全日本社会人選手権、国体、日本選手権、日本リーグの4大会をすべて制してチーム史上初の4冠を達成。日本のハンドボールチームとして最高の栄誉をすべて手にしたのである。
なぜ、信太は悩んでいたのだろう。
「日本代表で若い選手が台頭してきて、出場時間が減ってきていたんです。そうした状況で自分が成長するためにはどうしたらいいのか。まずは日本リーグでの出場時間を長くしたほうがいい。もっと試合に出ることが大事だと思いました。そのあたりから移籍を考えるようになったんです」
大崎電気時代の信太の出場時間は前後半合わせて60分のうち30分ほど。「交代してもチーム力が落ちない」という選手層の厚さが大崎電気の強みであり、いくら出場時間を増やそうにもチーム事情からいってそれは難しい話だった。
また、日本代表ではセンターバックというポジションを任されることが多くなっていたが、信太は本職と自認するレフトバックでプレーすることを希望していた。センターバックは司令塔であり、得点以上に周りの選手をうまく生かすプレーが求められる。一方、レフトバックはエースポジションと呼ばれ、なによりも期待されるのは得点だ。
「自分が点を取って日本を勝たせるような選手でいたいという思いがあった」。
プレー時間を増やし、バンバン得点を決める“点取り屋”という本来の姿を取り戻したい。それが移籍をする大きな狙いの一つでもあった。
19-20年シーズンに4冠を達成し、「もう大崎電気でやるべきことはすべてやってしまったのではないか」という思いもあり、機は熟したようにも感じた。そんなときコロナ禍が発生し、瞬く間に2020年に予定されていた東京オリンピックの1年延期が決まったのである。
もともと移籍を考えていた信太は「今しかない」と決断した。すぐに親交のあったジークスター東京の横地康介監督に自ら売り込みにいった。
「横地さん、驚いてましたね(笑)。以前から一緒に食事をすると『大崎をやめたらうちに来いよ』なんて声をかけてもらっていたんですけど、まさかこんなに早く来るとは思ってなかったみたいで」
伝統ある強豪チームの大崎電気から新しいクラブチームのジークスター東京へ。“チャレンジ”と言えば確かに響きはいい。でも、現実はそんなに甘いものではない。大崎電気であれば専用の体育館やトレーニング施設があり、いつでも好きなだけ練習ができる。言うまでもなくメンバーはみなトップ選手ばかりで、レベルの高い選手たちと日々切磋琢磨できる環境でもある。
「練習環境やチーム力の違いについては考えました。ただ、僕も30歳になって若い選手のように“伸びしろを伸ばす”という段階ではないと思ったんです。レベルの高い人とやっていれば確かに今の状態はキープできると思いますけど、右も左も分からないような選手がいるチームに入って、僕が経験したことをみんなに伝えたり、自分がやってきたことを再確認したり、プレーの正確性を高めたりしながら、若い選手と一緒にチームとして成長していく。それが自分のためにもなるんじゃないかと考えたんです」
自分が成長できる場所 それがジークスター東京だった
妻の梨歩さんに相談してみると最初は大いに反対されたという。梨歩さんは中学、高校とハンドボールに親しみ、高校時代はインターハイに出場経験のある元選手で、ハンドボール界の事情に詳しかった。ゆえに夫が「弱いチームに移籍して物足りなくなってしまうのではないか」と心配したのだ。最終的に理解してもらうまで何度も話し合ったという。
もう一つ、自らがプレーヤーとして成長すること以外にも移籍に踏み切った理由がある。長くハンドボールのトップ選手として活躍する中で、このスポーツをもっと変えたい、もっとメジャーにしたいという気持ちがあったのだ。
「野球やサッカー、バスケットボールだったら移籍が当たり前にありますよね。そういうのがないとつまらないと思いますし、今後のハンドボール界を考えると移籍が増えてほしいという思いもありました」
ハンドボール界に新しい風を吹き込む―。
それは17年ぶりに東京を本拠地とするチームとして誕生したジークスター東京が掲げるコンセプトでもあった。新しいクラブチームとして今までの実業団チームではできなかった発信の仕方でハンドボールの魅力を世の中に伝えていく。信太の考えとチームのコンセプトはピタリとマッチしていた。だからこそ信太は「移籍するなら絶対にジークスター」と強く心に決めていた。
結果的に日本代表でともに汗を流した大崎電気の東長濱秀希とトヨタ車体の甲斐昭人が同時に移籍することになったが、信太は2人と話をする前からたとえ1人でも移籍すると考えていたのだ。
こうしてジークスター東京での活動が始まった。引っ越しはせず、埼玉県の自宅から車で1時間かけて東京・有明の練習場まで通った。体育館は夜の7時から9時までの2時間しか使えない。付属するトレーニング施設はなく、自宅近くの24時間営業のフィットネスジムを借りて自分でトレーニングに励んだ。
一方でハンドボールの練習以外の活動にも取り組むようになった。チームは8月にコロナ禍で全国大会のなくなってしまった高校生が大学の指導者たちにプレーを見てもらうマッチングのイベントを開催した。クラブチームならではの企画であり、信太もこの試みに参加して大いに刺激を受けた。
今まではあまり考えていなかったメディア露出も積極的にするようになった。さまざまな環境が悪くなった点を差し引いても、新しいチーム、新しいメンバー、新しい環境でハンドボールをすることに心が躍った。
2020年8月末、日本ハンドボールリーグが開幕した。日本リーグの厳しさは8年間プレーして十分に知っている。最初からうまくいくと思っていたわけではない。それでも蓋を開けてみれば、待ち受けていた試練は信太の想像を遙かに上回った。
2021年1月公開