2002年の夏から本格的に写真を始めて3年が経った頃の話です。当初はフォトエージェンシーで内勤をしながら週末カメラマンとして少年野球を撮影するアルバイトから僕のキャリアは始まりました。友人の助けを借りながらではありますが、大学サッカー、Jリーグ、そして、日本代表と取材対象が広がっていきました。2005年になると週末カメラマンとしての限界を感じるようになっていました。最初はバイトだった内勤は、会社のご厚意で契約社員にしてもらっていたので、週末限定の取材であれば問題はありませんでしたが、海外取材となるとそうはいきません。この年、有給休暇を早々に使い果たした僕は上司の理解もあり欠勤扱いではありましたが、目標としていたワールドカップアジア最終予選をフルカバーすることができたのです。
この頃になるとカメラマンとしての収入も増えていて、これ以上を望むのであれば、カメラマンとして独立するしかないところまで来ていました。翌年にはワールドカップドイツ大会も控えています。取材パスの取得は難しい状況でしたが、サッカーの本場ヨーロッパでの大会はなんとしても現地で撮影したい気持ちが強くありました。しかし、それまで以上の活動を求めるのであれば、勤めている会社にも、カメラマンになりたいという思いを理解し応援してくれていた上司や同僚にも迷惑をかけてしまうのは明らかでした。
2006年1月、僕は会社を辞してカメラマンとして生きていくことを決断しました。
フリーランスになって最初の取材に選んだのは、サッカーのアフリカ・ネーションズカップでした。ヨーロッパのユーロや南米のコパ・アメリカに相当する大会で2年に1度、アフリカ王者を決める大会です。実は独立前からこの大会には興味がありました。その理由は簡単で、2006年のワールドカップドイツ大会で日本のライバルになる可能性があったからです。本大会の予選グループは8つ。アフリカからは5カ国の出場が決まっていたので、5分の8の確率で対戦する可能性がありました。
当時は今ほど海外サッカーが気軽に見られる時代ではなかったので、本戦で対戦するチームの情報や写真に大きなニーズがありました。これはアジア最終予選でバーレーンやイランなど日本の裏の試合を取材することで得た成功体験をもとにした僕なりの答えでした。多くのカメラマンがいるヨーロッパは競争が激しく、南米はあまりに遠い上に危険度も高い。そもそも組分けが決まる前に親善試合を1、2試合カバーして日本のライバルを狙い撃ちできる可能性はかぎりなく低いです。
そんな中でネーションズカップの存在を知りました。本大会の半年前に一カ国での集中開催。アフリカ勢がすべてカバーできる大会。これは仕事になるに違いない。そう確信しました。そして、開催国がエジプトだったことも追い風になりました。これが西アフリカや中央アフリカだったら躊躇していたと思います。しかし、観光資源が豊富で世界中から多くの人々が訪れるエジプトであれば、スリや盗難の可能性こそあれ、命を脅かすような強盗に遭うリスクはかなり低いと考えたのです。
年末に決まった組分けで日本はオーストラリア、クロアチア、ブラジルと同組になりました。中継で抽選をみていたとき「アフリカ〜アフリカ〜」と念を送っていたのは内緒です。当初、描いていた餅は絵のままとなり、フリーランスとして賭けた最初の勝負には負けてしまいましたが、すでに航空券や宿の手配をしていたこともあり、潔くエジプトへ行くことを決めました。
2021年1月公開