暁星中学で同じクラスになるという出会いをきっかけに香川照之と福田直樹の“ボクシングライフ”は始まった。中学時代は藤政(どうまさ)という名前のボクシング新聞を福田がつくり、香川と他のクラスメートと一緒に楽しんでいた。今回はボクシングマニアとしての“駆け出し時代”を振り返ってもらった。
小学校時代の学芸会。左から2人目が香川、3人目が福田=提供:福田直樹氏
学校の授業でさえもボクシングに結びつけた
――香川さんと福田さんは中学校ではどうのようにボクシングを楽しんでいたのですか?
香川 DBC(藤政ボクシングカウンシル=香川と福田で作った独自のボクシング統括団体)の由来となる新聞を福田が書いていたんです。そこで先生の授業をボクシングの1試合に見込むわけですよ。たとえば授業中に生徒たちがうるさいと「うるさ~い!!!」って叫んで、生徒たちが一瞬にしてシーンとなる理科の西塔先生というのがいた。普段はそんなに怒らないんですけど、これは大ハードパンチャーですよね。そうするとスタイルも似ていたし、試合(授業)自体はだらだらしていたから、西塔先生は確か……。
福田 ジミー・ヤング。
香川 そう、モハメド・アリに大善戦した(1976年4月)ヤングですよ。体育の浜田先生はヘビー級王者のケン・ノートン。これは髪型が似ていた。前頭部に島のように髪の毛が残っていて、みんなからはハワイと呼ばれていたのかな。全部ヘビー級の選手に絡めていたんですよ。
福田 新聞でノートンの浜田先生はプロフィールの出身地をハワイにしていました。
香川 先生を授業スタイルからボクサーに転化させて2人で納得してたんですよね。あれは中3くらいからだったかなあ。
ラスベガスのシーザースパレス特設リング=提供:福田直樹氏
福田 似たような話でビデオ合宿のときに一部でゲーム合宿も入ってきて。
香川 あったね。僕がボクシングのVHSのビデオを山のように抱えて福田の家に持って行って徹夜で見るんですけど……。
福田 ファミコンの野球ゲームでチームの選手の名前を好きにつけられるものがあった。そこでクロンク(アメリカの有名ボクシングジム)のチームとか、大学リーグのチームとか、ボクシングの選手を9人並べたチームを作って遊んでました。
香川 荻原千春さん(ロサンゼルス五輪代表)とかね。
福田 3番ファースト松島兄(勝之=ソウル五輪代表)とか。野球もそうだし全部ボクサーと置き換えて楽しんでいたんですね。
香川 ボクサーの特徴と異種の職業、スポーツに限らず先生とか、この特徴が似ているからこうだよねといった遊びを通じてボクシングを見る目を養ったような気がしますね。
――日常のすべてをボクシングに結びつけていたような感じですね。
香川 すべてボクシングに結びつけてましたね。ただ試合を見て、「これはきつくて根性があって殴り合いだ」というふうには見ていないですね。もっと技術的だったり、奥にあるものを探ったりして楽しもうとしていましたから。
福田 だから他の人に言っても通じないんですよね。
香川 そうなんです。最初に古谷くんというもう一人一緒に見ていた友人がいたんだけど、我々がこんな感じだから脱落していくんですよ(笑)。たぶん彼はもっと純粋にボクシングを楽しみたかったと思うんですけどね。
試合会場では試合以外も何から何まで見る
香川 後楽園ホールに行っても試合を見るだけでなく、常連客にひとしきり批評を加えたりして楽しんでました。
福田 我々は後楽園ホールの南側の一番後ろを指定席にしていたんですよ。
香川 自由席で関係者がそのあたりに必ず座るという風潮が出だしたころでした。
福田 上から俯瞰で会場のすべてを見られるんで。香川は俯瞰でいろいろなものを見るのが得意なんです。
香川 観察したかったんでしょうね。リングの中だけじゃなくてボクシングに携わる人すべてを。あのころは会場にやばそうな人たちも多く、その人たちにもひと通りあだ名をつけてましたから。
福田 そうだった(笑)。
香川 「あれがきた、あれがきた!」みたいな。それで有名人がきて「おおっ、××があの人たちの中に吸い込まれていったぞ!」とかね(笑)。
福田 そういう有名人たちがどういう動きをするかも予想したりしてましたね。
香川 当時はヤジを言う人もレギュラーの人たちがいてね。80年代の終わりくらいな。
福田 いたいた。
香川 世界戦になるとシーンとするときあるじゃないですか、2ラウンドくらいに。そんなときにレギュラーのおじさんが「何にもしてねえけど、なんとなくいいな、おい!」とヤジを飛ばす。どっと湧かせて世界奪取を予感させるというね。
福田 あれ、客が常連だけだと「また言ってるよ」となるんだけど、世界戦で普段は来ないお客さんもいるから滑らないんだよね。
香川 リングアナウンサーの間違いとか、レフェリングとかも細かくチェックしてました。だから目は良くなりますよね。何が起こっているかということを貪欲に見てましたからね。もう、見逃すまいという一心ですから。
福田 鈴木のお父さん(角海老宝石ジムの鈴木正雄社長)の拍手の大きさがすごいとか。
香川 いまの角海老宝石ジムの鈴木真吾会長が暁星の1学年下でお兄さんが同級生にいたんです。我々は鈴木のお父さんを日本のル-・デュバ(70年近いキャリアで多くの世界王者を育てた名トレーナー)と呼んでました。常にものすごく大きな拍手をするんですよ。自分のところの選手だとパンチが当たってなくても大盛り上がりするという(笑)。
福田 ヤジを飛ばしながら見ていた時期もあったね。村田英次郎とルペ・ピントールの世界戦(1980年6月、WBCバンタム級戦)のとき前から2列目の席に座っていて、香川が「村田、ボディ!」と叫んだら、村田がすかさずボディを打ったのは覚えてる。
香川 いまこれを打つべきだというのは子どもだったけどすぐに分かっていったような気がしますね。僕はボクシング未経験だったけど、いまこれを打つべきなんだというコンビネーションの理屈は目で見て分かるようになるくらい試合は見てました。
福田 ビデオを見ながらKOパンチが当たるドンピシャのタイミングで一時停止するという我々独自のゲームをしてたじゃない。昔のビデオなのでストップボタンを押してから実際に止まるまでタイムラグがあるからそれを計算して止める。だからKOパンチの前の選手の立ち位置とか、距離とか、空気とか、姿勢とかが分かるようになったんじゃないかな。自分の場合はそれがいま写真撮影に役立ってますね。
2020年12月公開