編集長 スパーもかなり強いボクサーと手合わせしていたとか。
古 川 同学年で言うと、細野雄一。自分がフライ級からジュニアフライ級(現在はライトフライ級)に落としていたから、それくらいのウエイトのボクサーたちとはよくやっていたね。
編集長 細野さんは日本タイトルで2階級制覇していますよね。
古 川 あと同じ角海老宝石ジムなら江口九州男、勝昭の江口兄弟とか、他ジムなら協栄ジムのトーレス(本名ヘルマン・トーレス)とか。
編集長 トーレスさんは元WBC世界ライトフライ級チャンピオン!
古 川 ほかにも平成三羽烏と呼ばれた一人、ピューマ渡久地。彼も同い年かな。
編集長 世界には届きませんでしたが、かなり人気ありましたよね。僕も好きでした。
古 川 渡久地は唯一、スパーのときに怖いと思った。前に出てくるプレッシャーが凄くて、恐怖感を覚えたよ。
編集長 1階級落としたとなると減量はどうでした?
古 川 普段の生活からかなり気をつけていたよ。リミットから5kg以上は増えないようにしていた。1日3食というのはなかった。大体2食だったね。
プロ2戦目に臨む古川さん。無類のスタミナを誇っていました
編集長 古川さんのボクシングスタイルは?
古 川 スタミナは抜群だったと思う。よく走っていたし、4回戦ボクサーだったけどスパーは6ラウンドやっていたし。目を掛けてくれていたトレーナーから「今まで見てきたボクサーのなかで一番スタミナがある」と言われたのはうれしかったね。あと打たれ強かったとは思う。ただ残念ながらパンチ力がなかった。
編集長 大学2年の春にデビューして結局プロで何試合やったんですか?
古 川 計5試合、戦績は2勝2敗1分け。大学を卒業したらスポーツ紙の記者になろうと思っていて、最後は勝ってやめようと。
編集長 えっ、続ける気はなかったんですね。
古 川 ボクサーとしてはたいしたことないなって思ったし、練習日誌をずっとつけていて、そのときにしか浮かんでこない表現とかあったりして、書くことっていいなって。いずれスポーツライターになりたい、と思うようになった。マスコミ予備校にも通うようになっていたから。
編集長 最後の試合は後に日本ランカーとなる選手が相手で、2-1判定で勝ちました。
古 川 5試合のなかで一番、出来が悪かった。全然体を動かせなくて、いいところをまったく出せなかったからね。でも一生懸命ボクシングをやってきたご褒美に、ボクシングの神様が勝たせてくれたんじゃないかなって思っている。
編集長 就職活動はどうだったんですか?
古 川 実はスポニチを含めて内定が4社から出たのよ。
編集長 ほとんどじゃないですか! まあ高校球児で、学習院大学出身で、プロボクサーでとなると経歴のインパクトは相当ありますもんね。でもなぜスポニチに?
古 川 迷っていたのが最終的には2社で、スポニチは編集局内での配属が決まっていたけど、もう1社は営業職とかにもなる可能性があったから、だったらスポニチで、と。
編集長 バルセロナオリンピックイヤーの1992年入社ですよね。最初は記事校正の校閲部に配属されました。新入社員は内勤でまずは新聞づくりの工程を学ぶというのが、スポニチの風潮としてありましたよね。
古 川 スポーツ好きの人が集まっているから、いろんな見方を教えてくれて勉強になったよね。ただ自分としてはすぐに外勤の記者になりたかったから、俺の居場所ではないなと思っていた。校閲部で2年半いて、そこから群馬支局に配属されてやっと取材して原稿を書けるようになったんだよね。
編集長 僕が1995年入社で、最初に配属されたのがレイアウトを担当する整理部。半年くらいの修行期間の後に、たまに地方版を担当することになったんですよ。群馬版、静岡版、長野版などあって、群馬版担当のときに古川先輩の記事を読んで見出しをつけて、レイアウトしていました。懐かしいなあ。
古 川 支局時代は1日3本くらい記事を書いていたね。未来の大物アスリートを発掘できるんじゃないかっていう楽しさもあったし、とにかく毎日飛び回っていた。
宇津木麗華選手が日本に帰化申請した際のスポニチのニュース記事
編集長 女子ソフトボールの名門・日立高崎ソフトボール部(現在はビックカメラ女子ソフトボール高崎)が高崎にあったので、ソフトボールに関する古川さんの記事が多かったように思います。
古 川 宇津木(妙子)さんには本当にお世話になった。ソフトボールを勉強させてもらっただけでなく、いろんなことを学ばせてもらったから。宇津木さんはメディアがあまり好きじゃなかったけど、真剣に取材していくことで認めてもらうようにはなったかな。
編集長 日立高崎を常勝チームに仕立てたのちに日本代表監督としてシドニーオリンピックで銀メダル、アテネオリンピックで銅メダルを獲得。国際ソフトボール連盟で殿堂入りした名将です。ソフトボールのニュースは当時、古川さん発が多かったですよね。
古 川 かなり取材させてもらっていたからね。日立高崎の主砲だった宇津木麗華さんが日本に帰化申請するニュースや「宇津木」姓になるニュースも、自分が書いたもの。1996年のアトランタオリンピックに帰化申請が間に合わなかったときの独占告白も、自分が書いた。どのメディアにも出ていない彼女の心境を、しっかり伝えることができたんじゃないかと思っているよ。
編集長 群馬支局に3年いて、東京本社に戻って一般スポーツを担当する部に配属されます。当時、プロレスやK-1、総合格闘技などブームが起こって新たに格闘面ができて、古川さんが担当したのがプロレス。僕も整理部で格闘面のレイアウトを任されることが多かったので、ここでも古川さんの記事をよく読んでいました。
古 川 全日本プロレス担当で、巡業を回って三沢(光晴)さん、小橋(建太)さんたちにも凄くお世話になったよ。
編集長 これからスポーツ記者としてアブラが乗ってくる時期だとは思ったんですが、まさか会社を辞めて他の道に進むとはまったく思っていませんでした。
写真はすべて古川雅貴さん提供
2020年10月公開