八重樫がボクシングを始めたのは故郷の岩手県、黒沢尻工業高に入学してからだ。中学時代はバスケットボール部の控え選手。グローブを握ったのが「友だちに誘われたから」というソフトな理由だったのは意外である。
軽い気持ちで始めたボクシング
特にボクシングが好きだったわけではない。ボクシングの知識は『がんばれ元気』とか『はじめの一歩』とか、漫画で知っている程度。もちろんプロになろうなんて夢にも思っていなかった。高校を卒業したら普通に就職すると思っていた。
ところが持ち前の負けず嫌いな性格から熱心に練習すると、高校3年生のインターハイで優勝。卒業後は普通に就職するつもりが、大学進学の道まで開けてしまった。
今度は高校のときと違い、大きな志を抱いて拓大に進学した。ところが結果が出ない。いいところまでいっても優勝を逃してしまうのだ。のちにWBC世界フライ級王者となり、世界タイトルマッチで拳を交えた五十嵐俊幸らライバルたちに勝てずに苦しんだ。
4年生でようやく国体のタイトルを手にしたとはいえ、アマチュアで特別に目立った存在ではなかった。卒業後の進路はプロ入りに決めたが、他のアマチュア上がりの選手たちのように、自信に満ちていたわけではなかったという。
「プロはグローブも(アマチュアより小さい)8オンスだし、ヘッドギアもない。プロでやると決めましたけど、正直に言えば怖かったです。だから卒業前から大橋ジムに通って、プロのボクシングに慣れようと思いました」
のちに激闘王と呼ばれるようになる男のデビュー当時の偽らざる気持ちだった。
プロ入りに向けた準備が功を奏したのか、05年5月のデビューから3連続KO勝ちをマークした。5戦目で東洋太平洋ミニマム級王座を獲得。これは当時、東洋太平洋王座獲得の日本最速タイ記録だった。
このころの八重樫は決してバチバチと打ち合うボクシングを好んでいたわけではない。もちろん闘争心はあった。チャンスと見れば迷わずに攻め込んだ。それでも「ボクシングは技術の優劣によって勝敗が決まる」と考えており、出入りのスピードを生かしたボクシングを身上としていた。
努力の先輩、亡くなったライバル
そんな八重樫に大きな影響を与えた選手が2人いる。
元WBC世界スーパー・フライ級チャンピオンの川嶋勝重はジムの先輩だ。
川嶋は高校を卒業してからボクシングを始めたいわゆる“たたき上げ”で、アマチュアの経験はない。遅咲きの努力家は八重樫が大橋ジムの門を叩く前年、徳山昌守を下して世界チャンピオンになっていた。
川嶋は泥臭いタイプのチャンピオンだった。技術レベルは世界チャンピオンとしては決して高い方ではない。武器は強靭なスタミナと右ストレート、そして最後まであきらないガッツである。試合では相手の心を折るようにして勝利をもぎ取る選手だった。
「川嶋さんの走り込み合宿に参加すると、最初は僕たちのほうが走るのは速い。でも、3日目、4日目になると、僕らは疲労で落ちてくる。そのとき川嶋さんは落ちないんです。1週間最後まで落ちない。ああ、これが本当のプロなんだと思いました」。
川嶋というアマチュアでは出会うことのなかったタイプのボクサーに、八重樫の心は激しく揺さぶられた。
もう一人を辻昌建という。
八重樫はプロ7戦目、当時の世界タイトル獲得最速記録をかけてWBCミニマム級チャンピオン、イーグル京和に挑戦するも判定負け。この世界挑戦失敗から2試合目、08年4月の日本タイトル挑戦権獲得トーナメントでぶつかった相手が辻だった。
アマチュアで全国優勝を経験し、プロで東洋太平洋王座を獲得。世界挑戦も経験している八重樫と、同じくアマチュア経験があるとはいえ、日本ランカーになったばかりの辻。周囲から見れば、八重樫の断然有利である。ところが八重樫は足元をすくわれ、結果は1-2の判定負けだった。
「技術では僕が上回っていたと思うんです。そうなると気持ちの差ですよね。辻さんは苦労して日本ランクに入って、日本タイトルにかける気持ちが半端じゃなかった。そこが圧倒的に違った。自分は勝って当たり前だと、どこかなめていたんです」
辻はトーナメントを勝ち抜き、日本ミニマム級王座決定戦に進む。そして両選手がフラフラになる壮絶な試合の最終10回、ついに力尽きて無念のTKO負け。辻は後楽園ホールの控え室から病院に救急搬送され、そのまま帰らぬ人となった。
辻戦に敗れて以降、日本タイトルマッチからやり直した八重樫は09年に日本チャンピオンとなり、3度の防衛に成功。一見したところ順風満帆のように見えたが、度重なるけがに苦しめられていた。
そんな八重樫に対し、大橋会長は引退をすすめた。2度目の防衛戦のあとだった。こんなにけがが多くてはもう試合をさせられない。そう判断したのだ。
ここがターニングポイントになった。
才能がなくても努力を惜しまなかった川嶋の背中を見て、命をかけてボクシングと向き合った辻と拳を交えて、八重樫の中に芽生えた何かが、ようやく形になって表れ始めたのだ。11年10月、タイ人王者のポンサワン・ポープラムックを10回TKOで下してWBAミニマム級チャンピオンに輝いた。初回から激しく打ち合う、激闘型の試合だった。
迎えた2012年6月、WBCミニマム級王者、井岡一翔との2団体統一戦が決まった。“八重樫劇場”の幕が開けた。
2020年5月掲載