タイは急激な経済発展により欧米文化が流入して、生活様式が変化しつつあった。それでも郊外の住宅街にいけば至るところにタクローコートがあり、スコールがおさまる夕暮れ時になると何処からともなく人が集まり、セパタクローを楽しむ文化が残っている。プロリーグも存在して、チーム数は年によって変わるけれど、10チーム程度が4、5ヶ月をかけて、ホーム&アウェー方式で戦う。「マイペンライ(何とかなるさ)」の文化が根付いているから運営は日本人からするとかなり適当にみえるけれど、その競技レベルは恐ろしく高い。
バンコク郊外の日常の光景。オヤジもセパタクローします。
そんな選手たちの頂点とされる代表に選ばれることは最高のステータスだ。世界選手権やアジア大会で金メダルを獲得すれば、莫大なボーナスが約束されている。その代わり代表に相応しい品格が求められ、実力があったとしても素行が悪ければ二度と呼ばれなくなる。そして、勝利を義務付けられている。これは日本柔道が金メダル以外は負けと見なされる感覚に似ているけれど、その度合はより厳格だ。セパタクローの世界でタイが負けることはない。いや、絶対にあってはならないことなのだ。2018年のアジア大会では新種目を加えて4種目が実施されたけれど、競技普及の観点から開催国以外は2種目しかエントリーできない。なぜならば、制限を設けないとタイがすべて勝ってしまうからだ。
仁川アジア大会でも圧倒的な強さを誇ったタイ代表。
撮影を続ける中で考えたのは発表方法だ。雑誌やネットなどの媒体も考えたけれど、写真家として彼らに報いる最高の方法は写真展だ。それも審査がある大きなギャラリーでの開催にこだわりたかった。セパタクローを知らない審査員に認めてもらっての発表に意味があると思っていた。
写真が貯まってきた段階でポートフォリオを作成して意見を募った。試合だけでなく練習やプライベートも撮影した。考えうる状況はすべて撮った。何よりも10年近く写真を撮ってきて、ここまで重点的に取り組んだテーマはなかったから、それなりに自信はあった。
「中途半端、ドキュメンタリー舐めてるでしょ?」
自信はもろくも崩れ去った。
カメラマンとして生きてきたプライドは粉々に砕け散った。諦めかけなかったと言えば嘘になる。しかし、彼らは人生を削りながらボールを蹴りつづけるのだ。それは「セパタクローが好き」というシンプルな理由だ。彼らの姿を見ていたら、くだらないプライドを守ろうとする自分が情けなくなった。そして、ここで諦めるわけにはいかない出来事があった。
仁川アジア大会でのことだ。この大会では3種目が実施された。2人制のダブル、3人制のレグ、団体戦のチームレグ。日本はダブルとチームレグにエントリーした。大本命のチームレグに先立って、日本はダブルで銅メダルを獲得した。これがチームレグへの弾みになるはずだった。
ダブルで初の銅メダルを獲得。トサーの高野征也(中央)と寺本進(左)
4年前の広州アジア大会で史上初となるチームレグで銅メダルを獲得したとき、関係者は密かに期待していた。これで注目が集まって、少しは環境が改善されるのではないか、と。しかし、期待したような大きな変化はなかった。彼らは悟った。銅メダルでは足りない。日本でセパタクローが注目を集めるにはもっと大きな戦果が必要だ。そう決意して過ごしてきた4年だった。しかし、結果はグループリーグ敗退だった。
チームレグではグループリーグ敗退となった。
1年と少しの間だったけれど、彼らのセパタクローにかける想いの一端を見てきたからこそ、敗退直後の彼らに声をかけるのは躊躇われた。しかし、思い切って声をかけることにした。
「おつかれさまでした」
短い労いの言葉と力のない握手を交わす。うつむいたまま目が合わない選手もいた。そんな中、手を強く握り返してくる男がいた。彼は知識がない僕の質問にも親切に答えてくれていた選手だ。思いがけず強い力で握られた手。次の瞬間、彼は僕の胸に頭を押しつけて、消え入りそうな声で言った。
「すみませんでした」
嗚咽を漏らす彼に僕はかける言葉もなく、ただ肩を叩くことしかできなかった。僕は彼らの何を見てきたのだろう。何を撮ってきたのだろう。なぜ一緒に泣くことができなかったのだろう。色々な疑問が脳裏をよぎった。
4年後、どんな結果になろうとも、彼らと気持ちを分かち合えるようになりたい。そう思った。
2022年9月公開