一つの区切りはついた。
だがそれはあくまでコンマであって、ピリオドではない。
ボートの鉄人、武田大作。
その世界で彼の名を知らぬ者はいない。1996年のアトランタ五輪からロンドン五輪まで5大会連続出場。シドニー五輪、アテネ五輪では軽量級ダブルスカルで決勝レースに駒を進め、日本史上最高位の6位入賞を果たすなど日本ボート界を長らく引っ張ってきたレジェンド中のレジェンドである。
46歳になった彼は、東京五輪を目標に置いてきた。全盛期は過ぎたとはいえ、昨年5月の朝日レガッタでは一般男子シングルスカル優勝を成し遂げ、全日本選手権では6位入賞。まだまだ健在だと示している。
東京五輪の代表選考は、2000mエルゴメータートライアル(2月)で基準をクリアした選手のみが次の選考レース予選トライアルに進める。エルゴメーターとは簡単に言えば、ボート競技を陸上でトレーニングするための器具。そのエルゴメーターを使ったトライアルで軽量級の武田は順当に基準タイムの6分30秒を突破してくるだろうとみられていたが、6分36秒6で次のステップへの道が閉ざされてしまった。
東京に向けて意欲を燃やしてきただけに、大きなショックを受けているのではないかと考えた。
意外にも武田の声はサバサバとしていた。
「終盤に上げていけなかったのは、筋肉の疲労が大きかった。心肺機能はまったく問題なかったんですけどね。原因がはっきりしているので、もうここは仕方がないかな、と」
高強度のトレーニングを続けたくとも、筋肉の疲労回復が年齢とともに遅くなっているためトレーニングの質自体をなかなか上げられなかったという。減量も重なり、筋量が思っていた以上に減ってしまうという悪循環。トライアルは2回可能だが「ちょっと気持ちが切れてしまった」と1回で打ち切ってしまった。
酸いも甘いも知る大ベテランだけにピーキングはお手のもの、のはず。2月のトライアルに合わせていけるという感覚は持っていたのだが、今回ばかりはうまくいかなかった。年齢による影響は少なからずあった。
武田は故郷・愛媛にずっと拠点を置いてきた。生活も競技も。
地元に本社を置くホームセンター業のDCMダイキに所属し、愛媛県ボート協会副会長と普及部長という顔を持つ。家業の農業もある。
40代なかばで一つの目標が途切れたときに「中年の星」には現役引退という道も視野に入ってくるのか。
ストレートに尋ねると、武田は言下に否定した。
「エルゴ終わって記録を出せなくて、でも終わった瞬間に思ったんですよ。じゃあ次、どんな練習をすればいいのかなって(笑)」
武田の笑いにつられるように、筆者も思わず笑った。
「筋肉をもっと取り込んでみて、もう1度2000mやってみれば記録は上がるかもしれない。確かに筋肉疲労の回復が遅くなっているのは事実です。でも逆にボートを漕ぐ技術は上がっているわけです。向上心を失っていない以上、この競技をやめようとはまったく考えていないですね」
そうだった。彼にとって五輪は経過目標であって、最終目標ではなかった。
ボートを極めたい――。人艇一体となって自分で納得できるレースができるかどうか、を大切にする。「人との競漕である以上に、追求するのが一番の楽しさ」だからだ。
「ボートは奥が深いですよ、本当に。筋量を維持して、技術を上げていければ20代なかばのころくらいの記録は出せるんじゃないかって思っているんです。競技者であると同時に指導者でもあるので、若い子たちに教えていきたいという気持ちも強いです。追求するというのはこれからも変わらないと思いますね」
サバサバな口調は、向上心の裏返し。これからやること、やりたいことが見えているからにほかならない。東京五輪に向けた取り組みに、後悔があるからではない。全身全霊やってきたから「先」が見えたのである。
4年前のリオ五輪、武田には日本人最多タイ記録となる夏季五輪6大会連続出場が懸かっていた。だが代表選考レースにエントリーすることはなかった。
42歳になった第一人者は、筆者のクエスチョンマークを消してくれた。
「僕は20代のときより今の方が強いと思っています。でも世界はさらに強くなっていて、追いつけていない。トップを取る自信がありますか?と聞かれたら、『はい』と答えられない自分がいました。だから自分で悩んでいるときに五輪を狙っちゃダメだなと、そう思ったんです」
悩みは後退を意味しない。次のチャレンジに向かうための肥やしにすればいいだけのこと。4年後の東京に目を向けていた。年齢を重ねるとなれば世界との距離はさらに遠くなる。世界と戦う気持ちがなければチャレンジはしない。ただそれ以上に、今度は年齢との戦いを制したいという野望がむくむくと彼の心に広がっていた。
あのとき武田は言った。
「僕が大切にしているのは体力もそうですけど、やっぱりメンタル。そういうときってまず『もう無理かな』とメンタルがまずやられますから。東京を目標の一つにすることで、練習していてもモチベーションになっています。この先も自分を高めていくとどうなるか。伸びるときって若い人を見ていても思いますけど、発想が新鮮だったり、いろいろと新しい発見があって柔軟に考えられたりするからだと思う。40歳を過ぎても、自分のなかでそこは全然変わってないんです」
あれから4年。ケガも多かった。2017年の地元・愛媛国体で左足を負傷したことから、なかなかトップコンディションに戻らない時期があった。トレーニングを調整し、ケアに充てる時間も長くなった。とはいえメンタルが低下することはなかった。
競技の未開拓部分、年齢の未知なる世界。
実は探究者のモチベーションをさらに上げるきっかけがあった。あらためて世界から学ぼうと2018年、スイス・ルツェルンで開催されたボートのワールドカップ第3戦に「一人のファン」として視察に向かったのだった。
2020年4月掲載