ラスベガスでの生活が始まった。ソーシャルセキュリティーナンバーの取得、銀行口座の開設など事務的な準備を済ませると、日本から家族を呼び寄せた。最初は事情がわからず街の中心地に住んでみると、ガラの悪い地域で、子供の教育にもよくなさそうだ。少し家賃は高くなるものの、郊外の住宅地に引っ越すと、ここが抜群だった。
「私の住んでいたところは決して高級住宅地ではありませんが、リゾートに住んでいるような感じでした。どこに行ってもすいているし、レッドロックキャニオンという大自然も車で15分ほど。車で5分走ればもう砂漠ですから。近所のスーパーで元世界チャンピオンを見かけたり、街で有名なボクシング関係者に会うのは日常的でした。マニアの僕としてはうれしかったですね」
仕事は予定通りライターからスタートし、徐々にカメラマンとして取材申請をするようになる。最初は市内の西のはずれにあるオーリンズという500人規模の会場で写真を撮った。主に駆け出しのグリーンボーイ、あるいはホープと目される選手が出場する興行である。やがてこうした写真が認められ、大きな試合で撮影するチャンスもめぐってきた。
2003年4月、ラスベガスのMGMグランドガーデンアリーナのリングサイドに福田の姿が見えた。メキシコのスター、マルコ・アントニオ・バレラがケビン・ケリーを迎えたタイトルマッチが初めて手に入れた大舞台だった。翌月のオスカー・デラホーヤvs.ヨリボーイ・カンパス、翌年のマニー・パッキャオvs.フアン・マヌエル・マルケス第1戦と、夢にまで見たビッグマッチでリングサイドに入れるようになった。
福田の写真は他のカメラマンとは何が違ったのか。いい写真の要素はいろいろとあるが、福田の場合はパンチがヒットする瞬間を確実にとらえる能力が抜群に高かった。これが大いに評価されたのだ。福田はカメラを構え、選手と呼吸を合わせながら動きを目で追い、パンチの打ち出し、当たる瞬間を“読む”。香川と何百時間も費やしたビデオ鑑賞合宿や、さまざまな試みをした試合観戦が読む力の土台になっていた。
こうして福田の写真は評判を呼び、ビッグマッチを数多く開催するホテルグループ、MGMの広報部長に気に入られ、さらには世界最大のチャンピオン認定団体、WBC会長の目にも止まった。2006年5月に撮影したデラホーヤvs.リカルド・マヨルガ戦の写真がWBC年次総会のパンフレットの表紙を飾り、ついには世界で最も権威があるボクシング雑誌と言われる「ザ・リング」のメインカメラマンになったのだ。
「リングの目に最初に止まったのは試合の写真ではなくウィンキー・ライトが練習中に水を垂らしながら飲んでいる写真でした。それをのちに編集長になるダグ・フィッシャーが『こんな写真は見たことがない』と気に入ってくれて、当時の編集長だったマイケル・ローゼンタールに推薦してくれたんです。リングのメインカメラマンになれたことは大きかったですね。日本のボクシング雑誌だと言っても、残念ながら相手にされませんでしたから」
試合以外の撮影もある。アメリカに滞在中、練習風景も含めて最も撮影する機会を得たのがスーパースター、ラスベガス在住のフロイド・メイウェザーだった。アメリカで仕事をした中で最も印象深いボクサーの一人である。
「メイウェザーは練習が長いんです。しかもまったくペースを落とさずに3時間、場合によっては4時間も練習する。あれは化け物でした。練習もすごかったですけど、ジムの駐車場にスーパーカーを30台くらい並べるんですよ。車の品評会みたいに。取り巻きが乗ってくるです。並んだ車の中にはケーニックセグとか、ブガッティとか、1億円以上する高級車がたくさんある。何を考えているのかよくわからなかったですけど、あれはすごかったですね」
あたかもトントン拍子にカメラマンとして名声を得たような印象を与えてしまったかもしれないが、実際にはある程度認められるまでに渡米から7、8年を要している。この間、悪質な嫌がらせとも、人種差別とも思えるような理不尽な仕打ちに何度もあった。
セキュリティーから「ここで撮れ」と言われた場所はリングが半分くらしか見えない場所だった。試合が終わり、リングのエプロンにあがろうとしたら、他のカメラマンはOKなのに「お前はダメだ」と引きずりおろされた。自分の撮影場所が用意されているにもかかわらず、横のカメラマンに「邪魔だ」と押し出されそうになり、必死に場所を確保しようと、大柄なカメラマンの間に片足だけ4時間も突っ込み続けて撮影をしたこともあった。
プライベートでも福田は大きな災難に見舞われた。2009年、娘の珠梨さんが交通事故に見舞われたのだ。運転していたのは福田だった。
「娘が中学生のときでした。信号待ちをしていたら、後ろから飲酒運転の車に追突されたんです。僕はバックミラーに突っ込んでくる車が見えたので、後になってあのシーンを何度思い出したかわかりません。車の後ろが完全につぶれて、後部座席にいた家内はうまくスポットに入って無事でしたが娘が大変でした。映画みたいに人が集まってきて、ナイフを持っている人がシートベルトを切って娘を引っ張りだそうとしたけどうまくいかなくて……」
やがて救急車がきて珠梨さんは運ばれていった。福田は一緒についていこうとしたものの、警察の現場検証に立ち会わなければならない。苛立ちながら警察に事情を説明していると、妻の珠美さんから電話が入る、珠梨さんの意識がなくなり、もうダメかもしれない、という悲痛な内容だった。
「ようやく現場から解放されて病院に急行したんですけど、病院側からは何も教えてもらえない。2時間くらい待たされて、あのときは本当にダメだと思いました。最終的に助かって、奇跡的に後遺症も残らなかったんですけど、あれは僕の人生でも一番に衝撃的な出来事でした」
珠梨さんはリハビリをへて学校へも復帰。学年末には事故から復帰してがんばったということで、全校生徒の前で表彰をされた。
「アメリカの学校では学年末にクラスで1人か2人、ホワイトハウスからの賞状をもらえる制度があるんです。娘は大変な事故から復活してよくがんばった、ということで中学校で表彰をしてもらいました。全校生徒が拍手をしたときはグッときました。セレモニーはアメリカっぽくプレゼンターの先生が盛り上げて、わざとらしいのかもしれないけど、あれには感動しました」
最愛の娘を失わずに済んだ福田は生きている喜びをかみしめ、ますます写真の腕を磨くようになる。すべては最高の1枚を撮るために。本人は知る由もなかったが、最高の栄誉は目の前に迫っていた。
2020年4月掲載