世界的にこれだけ活躍した日本人スポーツカメラマンがいただろうか。福田直樹、54歳。ボクシングの聖地、ラスベガスに16年間滞在してボクシングの試合を撮り続け、全米ボクシング記者協会の最優秀写真賞を4度受賞した。これは日本スポーツ史上でも特筆に値する快挙である。
さらに驚かされるのは、福田がプロのカメラマンになったのは30代の半ばだったという事実だ。小学生のころ、祖父に譲ってもらった一眼レフでカメラに親しんでいたとはいえ、写真を学校などで本格的に学んだことはなかった。ボクシング専門誌『ボクシングマガジン』の編集者をしていた時代、カメラマンが手配できないときにちょこちょこと撮影をしていた程度である。
福田がカメラマンを志し、アメリカに、世界のボクシングの心臓とも言えるラスベガスに渡ったのは36歳の時、2001年のことだった─。
「ラスベガスに住むようになった直接的なきっかけは、オスカー・デラホーヤvs.フェリックス・トリニダードを現地まで見に行ったことです。試合もさることながら、ラスベガスは別世界、夢のような街で、ここに住みたいと思いました。あのころの自分からすると途方もない夢ではありましたが……」
1999年9月18日、世界4階級制覇を達成し、押しも押されもせぬスーパースターの座を手にしていたデラホーヤが、プエルトリコの英雄、トリニダードと拳を合わせた一戦は、世界のボクシングファン垂涎のゴールデンカードだった。のちに数々の名勝負が繰り広げられるマンダレイベイのこけら落とし。トリニダードが僅差で無敗対決を制した試合に武者震いを抑えられなかった。
このころの福田は出口の見えない長いトンネルを歩き続けていた。それは紛れもなく、人生における暗黒期だったと言えるだろう。
福田は大学卒業後、祖父の代から続く実家の漆器問屋で働きながら、フリーの立場でボクシング専門誌「ボクシングマガジン」のライターの仕事をしていた。ところが、うまく回っていたはずの漆器問屋の経営がおかしくなり、経営者だった両親は膨大な借金を残して姿を消す。残された福田は結婚して間もない妻とともに、債務の処理に追われた。
税務署からの追及、銀行との折衝、弁護士との相談、両親との確執、さらには身に覚えのない警察、検察からの苛烈な事情聴取……。詳細を明かすことが憚られるような神経をすり減らす日々が、数年にわたって続いていたのである。
数少ない息抜きの一つが妻と幼い娘と東京ディズニーランドに遊びに行くことだった。浅草橋の自宅から車でわずか20分。そこは別世界であり、束の間であっても現実を忘れることができた。家族でラスベガスを訪れたのはそのころだった。そこはディズニーランドを何倍にもしたようなパラダイスだと感じた。
幸運にも家業のゴタゴタに目途がつくと、福田はラスベガス行きを決心する。英語は話せず、現地に強力なコネがあるわけでもなく、プロのカメラマンでもなかったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。トラブル続きで閉塞感にさいなまれていた日本での生活から抜け出したい思いもあった。まずはカメラマンではなく、雑誌に寄稿するライターとしてアメリカに渡ろうと思った。
福田は苦しかったときも、ボクシングの仕事をやめようとは思わなかった。たとえ小さな記事にしかならなくても、撮った写真がルーペで見なければ顔を判別できないような大きさでしか掲載されなくても、それはいつだってかけがえのない仕事だった。
「どんなことがあってもボクシングだけは絶対に手放さないと思っていました。漆器は好きでしたけど、自分で始めた商売ではありません。ボクシングは自分で選んだ仕事でしたから」
ボクシングの編集の仕事は充実していたが、こと海外ニュースになると、海外の雑誌から情報を得たり、英文を訳したり、あるいは日本から出張したライターに書いてもらった記事を誌面に載せたりで、実際に現場で取材をする機会に恵まれたことはなかった。
現場で、生で、本場のボクシングに触れたかった。その場の空気を吸ってみたかった。当時も今も、世界のボクシングの中心地はラスベガスだ。映像や写真から伝わってくる本場のボクシングはどこまでも派手で、きらびやかで、そして神聖だった。10代のころ、心をわしづかみにされた世界がそこにはあった。
そのころ、ラスベガスに腰を据えてボクシングを日常的にカバーする日本人ライターはいなかった。もちろんカメラマンもいなかった。ただの自己満足ではなく、自分がそこに飛び込んでいき、本場のボクシングを日本に伝える意味はあるのではないだろうか─。
常識的に考えれば無謀なチャレンジかもしれない。福田には家庭があった。子供はまだ小学校に入る前だ。それとなく周囲に話をすると、反対する声が多かった。それで決意が揺らいだわけではないが、夢がしぼむ、気持ちがなえる瞬間とはこういうときだろう。
逆境とも言える状況の中、ラスベガス行きを心から応援してくれた友人がいた。名前を香川照之といった。
2020年1月掲載