まさか対戦相手が欠場? 大橋会長は不安を抱えていた
大橋秀行会長の心中は穏やかではなかった。といっても、慣れないイギリスでの試合だからといって、井上の調整ぶりを疑っていたわけではない。気にしていたのは「無事に試合が行われるかどうか」ということだった。
ロドリゲスが欠場するのではないか─。
対戦相手のIBF世界バンタム級王者、エマヌエル・ロドリゲスが欠場する? にわかに信じがたい話だが、大橋会長の頭に嫌な想像が忍び寄ってきたのには理由がある。この試合に先立って行われる予定だったバンタム級のもう一つの準決勝で、WBO王者のゾラニ・テテが試合数日前に急きょ欠場を表明し、対戦相手のWBAスーパー王者、ノニト・ドネアは代役選手に勝利するという何とも肩透かしの出来事が起きていたのだ。
欠場の理由は肩の負傷だったが、財政基盤が盤石ではなく、不安定な運営を続けるWBSSへの不信感が背後にあるのではないか、ともささやかれた。その後、テテは長期戦線離脱をしているから、おそらくけがは本当だったのだろう。ただこの時点で嫌なムードは漂ったのは事実だった。
直前になって前座にWBSSのリザーブファイトが入ることが分かると、大橋会長の不安はさらに増した。これは対戦相手変更の伏線ではないのか? リザーブファイトにエントリーしたのは英国の元IBF世界スーパー・フライ級王者、ポール・バトラーである。それなりの実力者であることが、不安を膨らませた。ロドリゲスが欠場し、井上はバトラーと戦うことになるのではないか……。
結果的にこの心配は杞憂に終わる。ロドリゲスは井上から逃げることなく、グラスゴーに乗り込んできた。ほっとしたのも束の間、今度はそのロドリゲス陣営から、思わぬ形で井上陣営にゆさぶりがかけられようとは、この時は知る由もなかった。
事件が起きたのは14日、グラスゴー市内のボクシングジムで行われた公開練習だった。ちょうど私が飛行機に乗っていたころの話だったが、翌日の記者会見で事情を詳しく聞けた。ロドリゲスのトレーナーが井上の父、真吾トレーナーに言いがかりをつけ、突き飛ばしたというのである。
井上陣営に衝撃 真吾トレーナーが突き飛ばされる
あらましはこうだ。公開練習は同じリングで、ロドリゲス、井上の順番で行われた。そのとき、真吾トレーナーがリングに上がったロドリゲスの写真をスマホで撮ろうとしたところ、ロドリゲスの参謀、ウィリアム・クルス・トレーナーがいきなり怒り出したのだという。真吾トレーナーはその時の心境を次のように語った。
「公開練習なんだから写真撮ったっていいわけじゃないですか。それなのに突き飛ばされて、何が起こったかわからない。通訳の人に聞いてもよく分からない。向こうのトレーナーはそのあともずっとこっちをにらんできて、3度にらみ合いですよ。本当にやってやろうと思って、(次男の)拓真に眼鏡を渡してましたから」
なだめたのは大橋会長だった。
「(相手はこちらを)イライラさせる作戦なのかもしれないけど、マクドネル戦のようにカッカしてしまうのはよくない。公開練習で写真を撮っていいのは、日本だろうがイギリスだろうがアメリカだろうが常識。WBSSには厳重に抗議しました。次に同じようなことがあれば、そのときはしっかり対処するということでした」
さかのぼること約1年前、井上はWBAバンタム級タイトルを獲得したジェイミー・マクドネル戦でエモーショナルになり、その感情をリングに持ち込んでいる。理由は減量に苦しんだマクドネルが、前日の計量開始時刻に1時間も遅刻したからだ。この間、早く計量を済ませて食べ物、飲み物を口に入れたい井上は待たされるはめになった。
試合は井上の初回TKO勝ちに終わったのだが、パワー頼りの雑なボクシングになってしまったという印象を残し、大橋会長はそのあたりを心配して平常心を強調したのだろう。井上も状況を十分に理解し、冷静さを保っていた。少なくともそう見えた。
ところがである。実際の心中はまったく穏やかではなかったことがのちに判明した。
「グラスゴーでは言わなかったけど、本当に腹立たしかった。絶対倒してやろうと思いましたよ」。
帰国した羽田空港の記者会見で井上はそう明かした。本当は冷静さを失いかけるくらい、めちゃめちゃムカついていたのだ。
ロドリゲス陣営が実際に何を考えていたのかは分からない。私が想像するに、クルス・トレーナーの言動の源には「余裕のなさ」があったのではないだろうか。チーフトレーナーを務めるクルス氏は29歳と若く、ロドリゲスとコンビを組むのは今回が初めてだという。何としても結果を出したい、というプレッシャーと焦りがあったとしても不思議はない。
グラスゴーには、試合の模様を生中継するWOWOWと、録画放送するフジテレビのスタッフがそれぞれ入っていた。ロドリゲスは日本のテレビ局の簡単なインタビューを断固拒否し続けていた。ロドリゲス陣営は“モンスター”との対戦を前にして、極限までナーバスになっていた。現地入りして2日目、取材を通して井上の心の奥底を読むことはできなかったが、ロドリゲス陣営の恐怖心だけは、はっきりと伝わってきた。