引退発表会見の席で山中慎介がベストバウトに挙げたのが、元WBAスーパー王者アンセルモ・モレノ(パナマ)とのリマッチだった。
2-1の僅差判定から1年後の2016年9月16日、エディオンアリーナ大阪で開催された11度目の防衛戦は異様な雰囲気に包まれていた。
激闘の末に3階級制覇を果たした長谷川穂積の劇的な勝利に沸いていた。控え室にいた山中もモニター越しに長谷川の試合を見届け、高ぶる気持ちを必死に抑えながら花道を進んでいった。
宿敵アンセルノ・モレノとの運命のリマッチ。1年前の対戦は、薄氷を踏まされた。ミクロの距離を削り合うハイレベルな神経戦の末にスプリットデシジョンで何とか勝利の女神を振り向かせている。左のヒジが空振りを繰り返して炎症を起こすというよもやの代償に、さすがの山中も苦笑いを浮かべたものだった。
当てにくい、やりにくい。
だが山中はその発想自体を変えてきた。「にくい」からと言って当たりそうな腕や体のどこかを探すのではなく、あくまでピンポイントで急所に打ち込んでいくと決めた。完全決着。左が火を噴かなければ、それは望めないのだ、と。
空間の削り合いから転じて怒涛の殴り合いとなる第二章。その派手なプロローグが初回の攻防だった。
強いジャブの差し合いから、お互いに距離を縮めていく。完全決着を望んでいたのはモレノとてまた同じ。1分すぎ、モレノの5連打に王者の顔が外に弾かれ、止まったところに追撃も加わった。
「いつも指摘されている前の手のガードが甘かった。でも逆にあれをもらったことで、ガードを上げてからのジャブが機能した。気づかされたというか、危ないんですけど、モレノも距離を詰めてきたんでこれはチャンスやな、と」
モレノのパンチによって出だしのいつもの硬さが取れたと感じた山中はすぐさま左の照準を合わせ始める。残り20秒、モレノが右ボディジャブを放った瞬間、左をドンピシャで合わせた。挑戦者はたまらず前のめりに倒れ込む。セコンドの大和は思わず声を挙げていた。ボディ打ちに合わせるカウンターは、この日のために用意していた。
2、3ラウンドと一触即発のムードが充満していく。技巧派の挑戦者は左の軌道を変えながら、カウンターで右フックを見舞おうとする。正統派の王者は右ジャブを散りばめながら、左をちらつかせる。3回ラストには左ボディストレートを当て、ジャッジへの印象も忘れない。
コーナーに戻ってきた山中は実にいい表情をしていた。そして大和にこうつぶやいたという。
「俺、思い出しましたよ。ワンツーのワンって、当てないヤツってことを」
リズムを取るだけの当てない右から左につなげる山中独特のワンツー。トマス・ロハスやマルコム・ツニャカオを倒してきたのもこれ。右は相手の視界を邪魔する効果もある。しかし最近は右を強化した半面、体重の乗せ方に微妙な狂いが生じていた。それを実戦で「思い出した」のだから大和が驚いたのも無理もない。
その感覚を取り戻して出ていった4ラウンド。だが、落とし穴が待っていた。
ワンツーを意識するあまりに左のガードが下がっていくのをモレノは見逃さなかった。このラウンド中、一度空を切っていた右フックのタイミングも合致しようとしていた。山中の左か、それともモレノの右か。どちらが先にヒットしてもおかしくなかった。
残り30秒。大振りになった返しの右フックに対し、コンパクトな右フックを合わされて尻もちをついた。モレノもずっとこの瞬間を狙っていたのだ。そして続く5ラウンドにも返しの右フックを合わされて、大きくよろめいてしまう。2度のダウンを喫した3月のリボリオ・ソボス戦のVTRを見ているようでもあった。採点のわずかな貯金を吐き出し、試合は振り出しに戻った。
「体の開きが大きくなって、合わせられてしまうと分かりながら我慢できずに(右を打ちに)行ってしまった。1回倒れておいて相手のパンチがないと言うのもなんですけど、後で引きずるパンチではなかったし、焦るということもありませんでした」
本人は至って強気かつ冷静。しかし陣営は肝を冷やしていた。大和は「次もらったら終わりだぞ」とさらなる警戒心を植えつけさせ、返しの右禁止令を出した。
「ワンツーのみで勝負しろ! 勇気を出していけ!!」
無論、山中もそのつもりだった。
衝撃のラウンドが始まった。
ワンツーを繰り返し、もう1発、渾身の右を当てるべく距離を近づけようとするモレノをけん制した。いや、けん制というより準備と言うべきか。
距離と感覚はつかんでいる。モレノも前がかり。あとは急所を、どう最大限のパワーで打ち抜くことができるか。
軽くバックステップを踏み、距離を取ってモレノを誘った。位置をわずかだけ左にずらし、相手が前に踏み出したところで王者のフットワークに力が入った。
当てないワンツー。
右を相手の目の前に置くように振り、視界をふさがれたモレノの頭が真正面で止まった。その瞬間、真っ直ぐに伸びた左ストレートがありったけの力で、そして人差し指の一点でアゴを捉え切った。バコッと音がした。鼓膜にこびりつくこれほどまでの粉砕音に、前のめりに倒したあのロハス戦がだぶった。
「(当てるワンツーだと)右を打ったときの体重になってしまう。細かいんですけど、目隠しという形で左をそのままつなげられました。
モレノがきれいに倒れている姿を見て、ちょっと残酷ですけど気持ち良かった。プッシング気味のダウンではないので」
名勝負というのは相手があって生まれるもの。モレノはさすがにWBA王座を12度も防衛した歴戦の強者である。立ち上がるとグローブをバンバンと両拳を突き合わせ、残りの1分半を乗り切ってみせた。目は死んでいなかった。しかし時間を稼いだところで強烈な一発のダメージを消すことはできなかった。
7ラウンド、ゴッドレフトが再度モレノのアゴを捉えた。一度照準が合ったものは、外さない。この日3度目のダウンを奪い、勝負は決した。最後はコーナーに詰めたところでトドメの左。パナマの英雄はストンと腰を落とした。
これほどない完全決着に、王者は左拳を天に突き上げた――。
危機感とプレッシャー。
強者との再戦というばかりでなく、ここ2戦は判定勝ちとあって「衰えた」との声も周りからは漏れてきた。
強くなっている自負があった。それを証明するためには、「誰の目から見ても明らか勝利」を手に入れなければならなかった。調子の波をつくらない調整法と入念なケアによって最高のコンディションをつくり、左を磨き上げてきた。
急所を一点で射抜く打ち方のみならず、こだわったのが「位置」である。身体の軸を、モレノが構える前の手の中央に置くようにした。いつもより少し左に位置をずらしたことで、モレノの視線に立てば右の肩越しから左が入ってくるイメージになる。スウェーしたところで首筋まで届く。「当たらない右」「急所一点」「位置」……すべてが重なって〝亡霊〟の異名を誇るモレノ退治を可能としたのだった。
2023年3月再公開